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ニュースレター 日本語


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ニュースレター75、5月13日

カルタヘナから100km離れたヴェレーロ港(Puerto Velero)が MAYONAの7ヶ月間の滞在場所となった。
カルタヘナから 一度 下見に来た。タクシーで往復3時間かかったが。割と新しいリゾート地でヨットハーバー、ホテルなどが整備されているが どうも森閑としている。陸に上げられた船も10隻くらいで少数、だいじょうぶなのか、ここは。
港に停泊中のドイツ人夫婦と話をして、ここのマネージャーがとても迅速に対応してくれるということを聞き、少し安堵する。

5月11日、クレーンで船を陸揚げした。なんと 舟置き場の隣が 沿岸警備の事務所だった。これほど安全なところはないだろう。ここでのホテル滞在4泊はサービスで無料、冷房付きで快適に過ごせた。
船の片付け、掃除は 毎度のことながら大仕事だった。暑さの中の作業は本当に体力消耗する。これから7ヶ月 炎天下に置かれるため、日除けカバーもかけた。
昨日、まだ過ごしやすい朝6時から作業を始めるが、結局 汗だくになって休憩しながら 夕方 全ての作業を終了した。

カルタヘナはとても素敵な街だし、7ヶ月後の冬のスイスからの再来は 嬉しいことに違いない。が、この暑さから逃れて寒いスイスに帰るのも なんとなく楽しみだ。

これからボゴタに3泊して空路でスイスに戻る。

ニュースレター73、4月21日
4月4日、キューバの サンティアゴ・デ・クーバに着いた。
キューバ南東部にあるキューバ第2の都市で、ハバナからは870キロ 離れている。「ハバナなんてキューバじゃない!本当のキューバはここサンティアゴ・デ・クーバだ!」とここの人たちは誇りに思っている。それもそのはず、かつては首都として栄え、キューバ革命への第一歩が踏み出された地でもあるのだ。フィデル・カストロ前国家評議会議長が生まれ育った街なのだ。

キューバの各地をすでに2週間 旅してきた友達夫婦 ガビとトーマスと合流した。
街の中心部で旅行者相手のガイドが近づいてきて いろいろ説明をし始める。スペイン語だが 友達夫婦はスペイン語が堪能、通訳も兼ねてくれる。パステルカラーの街並みは 今はくすんではいるが かつての繁栄を偲ばせる。どこでも 「チェインジ マネー」とドルを交換したがる。役人にしろ 教師、医者誰もが 1ヶ月25USドルの収入しかない。副業をせざるを得ないようだ。
店らしい店はなく 品物がパラパラ展示されている。一体どうやって 欲しいものを調達するのか、謎だ。

その後 4人でキューバでのセーリングだ。島から島へ、ただ想像していたのと違い、椰子の木々の生えた島でなく、マングローブに囲まれた島々だった。
目的地の港は Cienfuego シエンフエゴ、街の中心はホセ・マルティ広場で周りにはコロニアル調の建築物が並んでいる。ちょっと前に通り過ぎた通り、2度目に通ると 天井から 崩れた石が敷石上に散らばっていた。もしかして 頭上に落ちてきた可能性もある。どうも あちこち劣化している様だ。ハバナほどではないが。
貧しいのは確かだろう。が、革命後 社会主義の国として 教育制度は優れているようだ。人々に接すると 皆 親切で 感じが良い。
友達夫婦は 船を降り、カサ・パルティクラルに移った。これは一定の基準に達した民家が政府から許可をもらい、部屋を観光客に貸し出すシステムだ。ここで 我々の夕食も用意してもらった。オーナーから直接 話も聞けた。
レストランで Ropa Vieja (ロパ・ビエハ)を食した。古い服という意味で 見かけはそのままにほぐされた牛肉料理だが 美味しくいただいた。付け合わせは 豆ご飯で とても食べやすい。
どこでも至る所に 「我々は、戦う」「我々は団結する」というスローガンが いまだに見られる。一体 何と戦うのだろうか。年々、マイアミはもちろん 海外へ移住する人が多くなっているという。そして 家族に送金をするのだ。

キューバ在住の作家 Leonardo Padura の推理小説にもその背景が いろいろ書かれている。
5年後のキューバは どうなっているだろうか。
本当に 素敵なところなのだ。なんとか もっと 暮らし良くならないものか。
つくづく インターネットも不自由なく使えるようになって欲しい。

ニュースレター72、4月16日
ジャマイカでキューバでの物々交換の品々を買った。
Santiago de Cubaの港に 4月4日 昼頃到着した。港の役人は皆親切で気持ちよく対応してくれる。どこでもそうとは限らない。
人の良さそうな役人が 「自分には6人孫がいるんだが、何か 子供用のものは持っていないか? 」と 図々しい物言いでなく 聞いてきた。もちろん 色々 用意している。彼には 子供用飴、ゴム風船、石鹸を渡した。
翌日 港の外部の人が 「父親が漁師で 新鮮な魚をもってくるよ。」と一緒に キューバのラムも届けてくれた。料金とともに 希望の 牛乳1リットルを渡す。
その後 島から島へ アンカーを下ろしながら キューバを回っている。マングローブに囲まれた小さな島は魚とロブスターの収集所だ。「魚が買えるか」と聞くと ドンと 6匹 サバの様な魚を 頭を落として渡してくれる。料金はいらないが 食用油、ヌテラ、ビール2缶と交換した。
そして また 一隻の船がMayonaに近づいてきた。ロブスターだ。かなり大きなロブスター2匹が 食用油、ボトルに三分の一残っていたラム、石鹸、ビール3本と取引された。
Cienfuego のレストランで とても丁寧な対応をしてくれた若い給仕に ヌテラをあげる。 レジの後ろで すぐに スプーンで舐めていたのは 微笑ましい。
キューバの物資の不足は深刻だ。
他に、シャンプー、ボディークリーム、筆記用具など持参している。

ニュースレター71、4月2日
3月31日、午後5時ごろ ジャマイカ Port Antonioに着いた。3カ所以上、あちこちから 音楽が聞こえてくる。ボブ マレーの国だ。
毎度のことながら 着いたら移民局、警察、税関などなど全ての手続きを終えなければ 港の外に出ることができない。
イースターということもあり、手続きは明日になった。残念ながら ビールを飲みに行くことも 名物のジャーキーチキンを食べにも行けない。気の毒に思ってか、隣の船のフランス人が ジャーキーチキンをテイクアウトして持ってきてくれた。グリルしたスパイシーなチキン、とても美味しい。
翌日、12時近くになって マリーンポリース、そして 税関、移民局の役人が次々とのんびりと船にやってくる。
雑談で 「ジャマイカの本場のブルーマウンテンが飲みたい。」と言うと 「最上級のブルーマウンテンは 日本人が買い占めているよ。美味しいブルーマウンテンは日本で飲め。」だそうだ。
全ての手続きが終わったのは3時近くだ。やれやっと町に出られる。音楽、音楽、どこでもボリュームいっぱいに レゲーなどが聞こえてくる。ここは小さな町なので 大したものは何もない。バーさえ 結構歩かねば見つからない。やっと入ったバーは wifi もなく さびれた感じだ。飲み物を飲んで外に出ると 女性が 「8時からスモークショップがオープン。」と言ってくる。私は何のことかわからなかったが 要はマリワナのことだ。ここは合法なのだ。
町では ちょっと近づきたくないと言う風な人たちももちろんいる。英語圏なので あまり不自由はない。
次は キューバだ。

ニュースレター70、3月26日
ST.Martinから 三日間セーリングし、プエルトリコを横目に見て 3月24日、ドミニカ共和国のSanto Domongoの港に着く。プエルトリコはアメリカのビザが必要なため それを持っていない我々は島に入れないのだ。
海から河口に入ったところだ。ゴミの川だ。プラスチックボトル、テイクアウトの発泡スチロールの容器、靴と いろんなものが浮いている。ホタテアオイのような浮き草に 絡んでいる。吐き気をもよおすぐらいに ひどい。小さな港だ。
ドミニカ共和国への日本人農業移住は 1956年から 59 年にかけて行われた。日本政府の募集要領(要綱)に基づき、全国から選ばれた249家族1319人が カリブの農業に夢を抱き渡ったのだ。が、現実は 水道も電気もない 荒れた土地かジャングルだったようで、一部は帰国、他の国へ移住と 残ったのは少人数だったようだが、その家族はいまだ定住している。
サント・ドミンゴの市内は コロニア風で 教会、博物館と素敵な建物が見られる。 中心地の公園では マイクを持って歌っている。当然踊っている人もいる。 ここでも 洗濯、食料補給と忙しい。これまで経過したカリブの島々は 観光客のみで成り立っているようだったが、ここは 大きな島ということもあり、普通に人々が生活している。観光客もいるが、豪華大型ヨットなどは来ないようだ。
2日目の夜、スイスの知り合いの二人目の奥さんがここの出身で、娘が二人いるので ぜひ会ってほしいと言われ、招待した。娘二人とボーイフレンド一人、もう一人友達という 4人が港に来てくれた。ボーイフレンドのみ 英語が話せるという とても面倒な団欒なのだが、それなりに 楽しんだ。娘さんたちは 母親のいるスイスにはまだ行ったことがないよう、ビザの取得がかなり煩雑なのだそうだ。長女のマリエルはネイルアーティストをめざしている。次女エリスベートは コックの見習い中で いずれアメリカに行きたいと話していた。皆 明るく ここの生活を楽しんでいるのがよくわかる。母親が 仕事のためにスイスへ行った経緯は あまりよく知らないが。
昼間の暑さはやはり耐え難い。港にいる間は そこの冷房の効いたレストランに入り浸っていた。インターネットもあるし、で。

ニュースレター69、3月24日
 
カリブ海をセーリング中、やはり 洗濯は必須だ。
普通のコインランドリーはない。
港のランドリーに洗濯物を持って行く。何人かの女性が常に忙しそうだ。
洗濯物を預けて 指定の時間にまた受け取りに行く。
コインランドリーに比べて 料金は高いが 他に仕様がない。
楽なのは確かなので ありがたく恩恵をこうむる。
 
アンティグアでも 洗濯物を受け取り、港を出る。
停泊料金が高いので アンカー場所へ移動だ。
出発したのは良いが なんと隣の船のムーリング(船を繋いでいるザイル)が絡まる。
周りが大声で知らせてくれ、親切にも反対隣の人がモーターボートで 手伝いに来てくれた。
結局 ルカスが海に飛び込み 絡んだ鎖を解く。
いつものことだが、セーリング仲間は本当に皆 親切だ。
 
アンカーを下ろしたところから 岸まではモーターボートを使う。
今期 初めての使用なのだが、かからない、エンジンが。
ルカス、汗だくになって始動のための紐を引っ張るが ダメだ。
しかたない、手漕ぎで行くしかない。 途中から やはりモーターボートで岸まで行く人たちが ザイルで引っ張ってくれた。
やれやれ モーターボートの修理も必要になった。
 
アンティグアNorth Beachで アンカーを下ろす。
これがエメラルドグリーンの海か、と納得。浅いせいで深いところの海とは全く違う色だ。
 
翌日 次の島 Barbudaへ。ここは港に入らず Cocoa Bayと呼ばれるところに停泊する。
近くには ダイアナ妃が好んだ場所で 『ダイアナ ビーチ』と呼ばれる砂浜がある。 相変わらず 小型飛行機が飛び交っている。
あの有名な寿司レストラン『Nobu』もあるそうだ。
 
St.Barthèlemmy島で とうとうアンカーを引き上げる器具が故障した。
ルカスが 素手で引き上げる。毎度のことながら ルカス 汗だくになっている。
 
次の島 St.Martinは かなり大きな港があるので 修理には適しているだろうと 港に入った。
この島は半分がフランス領、もう半分がオランダ領だ。
我々はオランダ領へ。
次週からヨットレースがあるため 大型のヨットがたくさん停留している。
Mayonaのなんと小さいこと!
スーパーも 高級食材がいっぱいだ。
なんと 冷凍だが 日本からのトロと辛子明太子まである。
値段は見る気にもならない。
 
ここで 試行錯誤、四苦八苦 もちろんルカスがだ。
修理のために駆けずり回っている。
3日目に 全て修理が終わり 夕方 近くのアンカー場所へ移動した。
水に入り ひと泳ぎし、夕陽を眺める。
缶詰のツナで作るボケ丼は 十分に美味しい。

ニュースレター68、3月12日
 
2月28日から 島から島へ航海し、Antiguaアンティグアにいる。
 
St.Lucia
Martinique
Dominica
Marie Galante
Terre-de-Haut
Guadeloupe
Antigua
 
イギリス領、フランス領、独立した島と様々で、各々の島はそれなりの特徴がある。どこも港近くしか知らないので 大きなことは言えないが。
『食べることが命』の私は やはりフランス領の島の食事がうれしい。クロワッサンもバゲットもある。
お金持ちの集まるここアンティグアは レストランもやはり洗練されている。
 
港だけでなく 静かな湾にアンカーを下ろして停泊もしている。
水温は28℃以上ある。
シャワー替わりに泳いで 夕日の沈むのを見ながら ビールを飲むのは なんという贅沢か。
結構 雨は降る。
どの島も 緑が豊かだ。
陸近くで辛いのが 蚊だ。
すでに肌は焼けて 黒くなっているが、それでも蚊に噛まれた跡が無惨に赤い。
 
Guadeloupeグアドループ生まれの作家、Maryse Condé マリーズ コンデ(2018年 ニューアカデミー文学賞受賞)の『生命の樹』は 自伝的要素を持った 家系4世代の話だ。祖先はサトウキビ栽培のために連れてこられたアフリカ奴隷だ。奴隷解放はされていても 黒人、ムラート、白人をめぐる混み入った関係は続いているのだ。
料理好きのCondéの『料理と人生』も 彼女と世界各国の料理の関わりがとても面白い。東京に招待され、食事した様子も興味深い。
 
これからまたいくつかの島々を経て 4月にキューバで友達夫婦と落ち合う。

ニュースレター67、3月3日

セントルシアSaint Licia、Rodney Bayの港に3泊する。

コロンブスがここに最初に到着した日が 聖ルチアの祝日だったのでそう命名されたそうだ。独立までは イギリスとフランスの取り合いで14回 国籍が変わったようだ。現在は英連邦王国の一国で イギリス連邦加盟国だ。車は左側通行。

港から徒歩で20分くらいのところに Gros Isletという町がある。フライデー ナイト ストリートパーティで有名なのだ。
昼間、港から離れたところにあるスーパーに買い物に行き、帰り道 暑さで参って、無理だろうなと思いながらも 手を挙げると 一台の車が止まってくれた。外見はボロボロ、フロントガラスにはヒビが入っており、内部の機器も全く作動していない。が、とても気さくなおじさんで 陽気に話してくれる。フライデーパーティのことを聞くと 「あれは 旅行客のためのものだ。我々は 行かないよ。」と。
夜8時近く、町に繰り出した。町とはいっても 村だな、あれは。パステルカラーの木造家屋、野犬のような犬が何匹もウロウロしているのがちょっとこわい。
道の両側に たくさんの屋台が立っている。ビールやらラム酒やら 様々なボトルが並び、それぞれ独自のラムパンチを勧めている。肉や魚介類のバーベキューもあちこちにある。
カップ、容器は全てプラスチックで、ヨーロッパのプラスチック排除の風潮とは対極に立っている。
旅行客がゾロゾロと道を埋めている。カリブ諸島はやはり年配の旅行客が多いのだろう。派手な南国の格好をしたシニアに ちょっと引くものがあるが、そのうち 慣れてくるだろう。
この日はライブ音楽はなかったが、どでかいスピーカーが道端にあり、すごい音量で音楽がかかっていた。
皆 身体をふりふり 歩いている。
毎週金曜日 この光景が繰り広げられるのだが、もしかして この町はこれで生計立てているのかも。
我々も ビールとピンク色のラムパンチも飲んで 程よい夜風に吹かれながら帰途に着いた。

ニュースレター66、2月29日
昨日 ラ パルマから23日目、セント ルシア Saint Luciaに到着した。

大西洋横断 最後の夜は 少し勝手が違った。
夜中、ルカスの奇妙な叫び声にびっくりした。「来い、来い」と呼ばれ 甲板に出ると、ワイヤーの上に 鳥が一羽、無賃乗船している。夜目に見ると 結構怖い。船上を旋回していたもう一羽もやってくる。 カモメくらいの大きさだ。スコールがやってきて 風も強くなり、ルカスは船の前方で作業をしなければならなかったが、鳥達を避け、反対側の甲板から前方へ行く。もっと 鳥が増えたら、と 暗黙のうちに我々二人とも ヒッチコックの「バード」を思い浮かべていた。
朝方、ルカスが 怒っている。何事かとおもうと、鳥の糞で甲板が汚されているのだ。 仕方ない、当然だ。

風が弱まり、海流のせいで船の速度が落ちたため エンジンを掛ける。
海を眺めていると 飛び魚が ピューピューと単独、グループで飛んでいる。もちろん 音はしないが かなりの速さだ。この航海中、3匹が 甲板に転がっていた。

カリブ時間 午後12時頃、水平線の彼方 明るい灰色の雲が立ち込めているあたりを見ていると、ルカスが 「島だ、島が見える。」というが、いや あれは 雲の影でしかない。が、1時過ぎか、今度は しっかりと 島が見えた。

3時に港に到着、移民手続きなどで 1時間45分要する。その間 グラグラと体が安定せず。

そして やっと ビールだ。Pitonというここのビールだ。
港の風も 心地良い。

ニュースレター65、2月27日
3週間だ。
重ね着は全く不要となった。直射日光はさすがに暑いが、常に風があるので 日を避ければ快適だ。
初日の夜、風が弱まりエンジンをかけたが、その後は順調に継続して平均6ノットで走り続けている。3度 短時間 夜中に雨が降った。
24日は満月だった。月を眺めながら暗い海を眺めるのは 瞑想に近いことだった。
明日は Saint Luciaに到着する。500年前のコロンブスの航海と ほぼ同じ日数だ。バルバドスを目指していたが、到着が夜間になるとわかり、目的地をその先の 島にした。暗い中、船を港に着けるのは容易ではなく、ましてや 移民局での手続き上 夜間料金も発生するようなのだ。
じっくり本を読みながら、気分転換にSudokuをする。ポンプで海水を汲み上げ ホースでのシャワーで汗を流す。
オレンジもまだ3個残っている。壊血病の心配はない。

3週間、揺れ続けているが、陸に上がって まともに歩けるのだろうか。この間、アルコールは全く飲んでいない。明日のビールが 本当に楽しみだ。


ニュースレター64、2月20日
10時15分時点で バルバドスまで1004マイルとなった。
2週間 経過したのだ。
食料、水は まだ十分ある。風は日中、夜とも 大きな変動なく、平均6ノットの速度で走っている。
一定以上の風の強さや、他の船が Mayonaから20マイル圏内に近づくと アラームが鳴る。ピッピピッピとこれはうるさいのだが、安全のためにはしかたない。この速度では 速すぎて 魚釣りができないのが残念だ。

波は静かだが、大きなうねりで被さってくる。ドイツ語でこの波をDünungと呼ぶ。砂漠の砂丘のうねりに似ているためか。船は常に左右に揺れているため、支えなしに真っ直ぐ立つことはほとんど不可能だ。これは力がいる。料理する時も 全身を使うため 汗びっしょりになる。ちなみに 気温は上昇し、おそらく25℃はあるだろう。日中 日が差すとかなり暑い。
2月18日は息子の誕生日だ。衛星電話で「おめでとう」を言えるのはありがたい。回線(と呼べるのかどうか?)が悪く 言葉が途切れる。この電話は もちろん緊急時のためにあり、電話を受けることはできないが かけることはできるのだ。機械関係は全くわからないので詳細はルカスに譲る。
いまだにポルトガル時間を使っているため、日の出は 9時半ぐらいだ。明るくなって起きるので 時間のことは気にしない。
ルカスは 夜中も1時間ごとに走行をチェックしている。私は アラームで時々 目が覚めるが 結局 10時間は寝ている。
集中して本が読めるのは 本当に嬉しい。インターネットが繋がらないのは 平和なことだ。ヨーロッパが遠くになった。

ニュースレター63、2月13日
ラ パルマを発って1週間が過ぎた。
出発時、港で知り合ったドイツ人夫婦が見送ってくれる。奥さんが 手作りのペンケースに小さな絵筆をつけて 「縫い物が趣味なの。アジア風の生地があったから 航海の安全を祈って あなたに。」と。「ご存知でした? 絵を描くのが好きなんですよ。」と受け取る。手縫いの粗い糸目に親しみを感じる。

日の入りは8時45分、船の周りでイルカが飛び跳ねる。
1日目の夜は忙しかった。風が強くなり、メインの帆を小さくする作業をしたり、途中、風が止んで エンジンを掛けたり(帆は下ろさねばならない。)で あっという間に夜が明ける。毎晩 こうだったら ちょっと辛いかも、と思いながら。
8時ごろ、朝日が昇る。円の上部が赤っぽいオレンジ色に輝き、だんだんと全貌が見えてくる。なんて綺麗な卵の黄身! 
朝食は パンとコーヒー。4日目に ツォップを焼く。昼食は軽めに、夕飯をメインに食事を作る。
冷蔵庫の野菜が長持ちするよう、工夫している。ニンジン、キュウリは一本ずつ キッチンペーパーで包んでいる。パセリは水の入ったコップに差し保存。キャベツは芯に穴を開け 濡らしたキッチンペーパーを詰めている。さて いつまで食べられる状態が保てるか。

魚釣りの糸は常時 垂らしている。2回、掛かった魚に逃げられた。三度目の正直、7日目に ボニト様の魚が掛かる。
小さいが 刺身に。お腹の卵は煮付けて食べる。
ルカスが海水に入って 体を洗う。まだ水は冷たい。私は最小限の真水で体を拭く。誰もいない大海原、裸で船上にいるのも慣れてくる。
一夜目以外は、風は穏やかで 夜の作業はほとんどなく、あってもルカスが一人でこなしている。ルカスは一応 夜間も1時間ごとに走行をチェックしている。
風は後方から吹いており、ゲノアとフォック、2枚の帆を前方に広げて走っている。シュメッタリングと呼ばれる形は、蝶々の羽を広げた姿を称している。
青空の元 蝶の羽が風を孕むのは 本当に美しい。
もし、空が青でなく、海も青でなければ こんなに穏やかには過ごせないだろう。
すれ違う船もなく 遠方に2隻の船を見たのみだ。
1週間で800マイルを走った。全行程は3000マイルなのだ。

ニュースレター62、2月4日
1月31日、朝 10時15分 曇り空のマデイラを後にした。
順調な東風に吹かれ、2月2日の 朝8時過ぎ、カナリア諸島のLa Palma に到着した。ちょうど 朝日が水平線から昇ったすぐ後だった。

港のある サンタ クルスは 溶岩でできた黒い砂浜が続いている。海岸沿いに 16世紀から17世紀に建設された、バルコニー付きのコロニアル様式の建物が見られる。カラフルで個性的な彫刻が施された木製のバルコニーはなかなか素敵だ。
そこにレストランももちろんある。タパス風の料理が美味しい。
マデイラは夕方6時頃からレストランでの食事ができたが、ここはスペイン、早くとも7時半まで待たなければ 食事は難しい。
わかってはいたが、スペイン語優勢、英語が伝わりにくい。
2月3日、7時頃 レストランを探して町を歩いていると 数人のグループが お揃いの帽子を被り、ギター、ウクレレなどを奏しながら歌を歌い、白い粉を掛け合っている光景に合う。1週間後に始まるカーニバルの予行のようだ。
この「ロス インディアノス」と呼ばれるカーニバルは、昔、キューバ、ベネズエラ(すなわち『インド』)へ出稼ぎに行き、成功して裕福となって帰国した人々が豊かさの印として 小麦を投げ合ったのが始まりだそうだ。
このにぎやかなグループに 来い来いと呼ばれ 近づくと 案の定「白い粉」を頭から振り掛けられた。これは ベビーパウダーなので 害はないが 真っ白になる。
カーニバルが始まると 皆が白い服を着て一緒に 練り歩くそうだ。
道理で ブティックに男女共に多くの白い服が置いてあるわけだ。
金曜日から始まるカーニバルには参加できないが 少し雰囲気を楽しめたのは幸いだった。
2021年この島のクンブレビエハ火山が噴火した。この噴火では2800棟を超す建物、350ヘクタールの農地、70キロの道路が溶岩に埋もれた。
今日、バスで溶岩に埋まった地帯を見に行った。火山からは 薄っすらと煙が立ち昇っている。住宅、元バナナ畑の片鱗も見られず 真っ黒な溶岩が海にまで続いている。色々作業はされているようだが 元に戻るにはまだまだ時間がかかるだろう。

 
明日は 生鮮食料品を大量買いし、3週間の大西洋横断に備える。

ニュースレター61、1月29日
さすがは観光の島、ここでは様々なコンサートが あちこちで催されている。
コインブラ ファドも聴くことができた。
クラシックコンサートは外せない。毎週日曜日はフンシャールで室内楽が演奏される。
20日に聴いたのは マデイラの室内管弦楽団とアコーディオン奏者Márcio Fariaとの共演 ピアソラのTango Sensationsが 楽しかった。
そして昨夜、ヴァイオリンAlissa Margulis と ピアノLily Maiskyを聴きに行った。
クララ シューマンと、ブラームスの曲目だ。14才年上の恩師の妻とブラームスの関係は有名だ。まずは クララ シューマンの「3つのロマンス」から始まり、次は クララが一番好きで彼女の葬儀にも演奏されたであろうブラームスのヴァイオリンソナタ第1番だった。
休憩後、ロベルト シューマンの「詩人の恋」から何曲か、そして またブラームスの3曲、最後は ハンガリー舞曲1番という楽しい曲目だった。
リリー マイスキーは ミッシャ マイスキーの娘だ。髪質はお父さんそっくりのカールした、白髪でない茶色のふさふさした長髪を 時々手で後ろに払う。曲の説明の折、最後に サプライズがあると言っていた。
アンコールで最初に登場したのは なんと ミッシャ マイスキーだった。 会場が ドッと湧く。手には チェロを持っているのだ。もう、びっくりだ。
トリオで 2曲、最後の曲は シューベルトだった。何という響き、琴線に触れるとはまさに このことか。
前日 トリオでの演奏が行われたのは知っていたが、当然ながらチケットは完売されていた。
機会あらば 親子での演奏を楽しむのであろうか。ミーシャ マイスキーの壮絶な旧ソビエト連邦での体験に思いを寄せ、(当然 想像を絶することだが) 親子で奏でることができるとは しみじみ こちらも 幸せな気分に浸ることができた。
至れり尽くせりのマデイラ島、明日は いよいよ 出航する予定だ。

ニュースレター60、1月27日
マデイラに到着して なんと3週間経ってしまった。
1週間ぐらいは 修理の延長は免れないだろうとは思っていたが、全ての修理が終わったのは一昨日(25日)だった。
24日に 一応全部終わり、ということで マデイラの中心地フンシャールの港に移動した。
やっと終わったと安堵したのも束の間、翌朝 船底から溢れる水に 唖然とした。修理したセンターボードが不完全なのだ。すぐに 修理場に連絡したが、担当の人が来たのは午後2時、すぐにまた元の修理場(空港の滑走路下)に戻ることになる。
溜まった水をポンプで排出しながら2時間かけて戻る。再度の修理に4時間ほどかかり、午後7時30分、またフンシャールに向かう。
日は落ち、背後に満月が輝いている。水漏れは改善されたようだ。でなければ大問題だが。
島中に散りばめられた灯りがとても素敵な夜景を海上から眺める。
お昼にラーメン(まだ 食料の買い出しはほとんどしていないので 持参の)を食べただけなので すっかり空腹だったが、遅い時間で食事のできるところが 限られており、ピッツァを食べて凌いだ。
おそらく、カナリア諸島に向かう良い風が吹けば 出発できるだろう。
3週間の間、ルカスは時々修理の作業にも立ち会ったり、手伝ったりしていた。
その間、私はすることもないので、恒例、ご当地推理小説を読むことにした。
タイトルもそのまま「Tod auf Madeira」(マデイラ島での死)、ドイツ人作家のものだ。いつもながら この地を知るには最適な方法だ。ここの食べ物、飲み物はもちろんのこと、名所もいろいろ記述されている。
殺人が起こったのは かのRisco滝近くだ。よしよし、どこだかしっかり把握できる。 毒殺に使われたのは 特産ハニーケーキだが、これもすでに食している。
主人公達が滞在するホテルは 絶対これだと断言できるほど、外観だけだが、見極める。ここマデイラ出身の有名サッカー選手クリスティアーノ・ロナウド似の警察官が、なかなか渋い。2年前に自動車事故で妻を亡くして、未だに悲しに浸っているのだ。はいはい、ここの急斜面の蛇行する道路は 事故が起こってもしょうがないと思わせる。主人公の推理小説家のドイツ人女性は夫婦間の問題での 傷心を癒すため、ここに来ている。因みに 彼女はポルトガル語が堪能だ。
この二人のロマンスも匂わせながら 殺人犯も追い詰めるという設定だ。
暇つぶしには ぴったりの読み物だった。

ニュースレター59、1月16日

滞在中の町 サンタ クルースSanta Cruzで 12日から15日まで 聖アマロ Santo Amaroのお祭りが催されていた。
聖アマロは 16世紀に大西洋を横断して地上の楽園に到達した修道院長であり、船乗りであったそう。
町の中心にある教会近く、海岸沿いに大きな舞台が置かれている。歌に踊りに いろいろなアーティストが参加している。

初日の12日、あいにくの雨模様だが、舞台近くには様々な屋台が立っている。ポンチャ(ラム酒にハチミツとレモン汁)、もちろんビールなどの飲み物、ボロ デ カコ(ガーリックパン)も たくさんある。

 
きっと ここにはベジタリアンは存在しないのだろう。
肉、肉、肉がすごい。鳥を広げてバーベキューにしたもの、豚肉を月桂樹の葉で煮込んだもの、1.5mはあるだろう竹の串(円筒のハチクのような細い竹)に刺した牛肉が、あちこちに。牛一頭分そのままの肉が いくつも吊り下げられている。
巨大な牛串は5センチ角の肉がおそらく半キロは刺さっている。塩胡椒されたその串を15ユーロで購入し、海岸に設けられた薪のバーベキュー場で 自分で焼くのだ。豪快だ。
どうやって食べるのかと観察する。串から外しパンで包んだり、そのまま手づかみで食べている。おいしそうだが 二人でも食べきれそうにない量に、眺めるだけで十分だ。

13日、夜中の12時に花火が上がるそうで、いつもは早寝の我々だが、夜遅く出かける。 日中 かなり雨が降っていたが それも上がり、幸いだ。花火は 丘の上から上がる。素朴でかわいらしい。

14日は 夜8時に 聖アマロを定住のチャペルから教会に運ぶ行列があった。何人かが聖アマロを御輿で掲げ、民族衣装の人々、一般の人々が手に長いロウソクを持ち行進する。プラスチックの足一本を抱えている人は きっと家族の誰かの足の祈祷のためだろう。プラスチックの赤ん坊らしきものを抱いているのは安産のためだろう。

最終日の夜、屋台の人々は すっかり疲れた顔をしている。何はともあれ 祭りは終わり、これで全てのクリスマスの飾りが取り外されるとのことだ。
ホテルから徒歩で行けるところだったので 連日 のんびり楽しむことができた。

ニュースレター58、1月15日
1月14日、雨は上がっている。
Risco滝へハイキングすることに。海抜1000m程のところから 下り道を、滝に向かう。霧が深い。が、雑種な木々の中、気持ち良く歩く。道の脇には 灌漑水路レヴァダスが沿って流れている。
マデイラのレヴァダスは全長2000kmに及ぶのだ。Risco滝に到着する。滝自体はスイスで見られるものとそう変わっているわけではないが、景観 美しい。
先に進むには 上り坂となり階段もある。
実は先週 咳が二日間続き 眠れなくなり、緊急病院へ行った。病院もすぐ見つかり、受診、治療もスムーズに進み、マデイラでの過ごしやすさが上昇する。今回の診断は喘息だった。
薬で症状は抑えられたが、さすがに坂道を登るには 肺への負担が大きいようで、ゼーゼーと気管支が鳴る。スプレー薬を使いつつ、無難に元来た道を戻ることにして2時間ほどのハイキングを終える。
霧がさらに深くなり遠景は灰色で何も見えない。車道の両側は濃い緑に黄色い細かいドットのエニシダが咲き乱れている。まるで草間彌生の世界だが、それほどの狂気はなく 幽玄な雰囲気だ。
Jardim do marに向かう。打って変わって 青空が開けている。
海岸のカフェーに座り、高い波、岩に砕け散る波を眺める。
隣のドイツ人夫妻はマインツからで、ここに家を持っているとのこと。気候の良さと、充実した医療に安心して過ごせると話していた。
島は険しい山、峡谷、海岸と場所により 天候がくるくる変わる。
探せはどこかで 日が照っている。

 
 
ニュースレター57、1月13日
 
1月6日に ジュネーブを発ち マデイラに到着する。
空港でレンタルカーを受け取り、前回 馴染みのホテルに荷物を置く。
近場のレストランで ラパス、ボロ デ カコ(ガーリックパン) を懐かしく食す。
タコのグリルもおいしい。
 
1月8日、船置き場に行き、修理状況を聞く。ここも シェルブールと大差なかったようだ。頼んだことが 部品の調達遅れとかの言い訳で ほとんどなされていない。
 
1月9日、マストの修理を頼んだオリビエと、クレーン車で マストを 船の定位置に設置する。細々とした作業も終え、これは終了。オリビエは来週から ガールフレンドとスリランカでバカンスだそうだ。我々の支払いで優雅に過ごせるに近いない。
 
ホテル滞在を延長するしかない。結局 オランダからの部品の到着を待たねばならず、日程が定まらない。
が、やはり ここで 様子を見ながら 常に修理会社の人とコンタクトを取るのが最良に思える。
一旦 スイスに戻ろうかとも考えたが、そうすると いつまで経っても終わりそうにない気がする。
 
10年間 ヨット生活を送ったマーティンに話を聞くと、「船の修理とはそういうもんだ。自分たちも どれだけ 時間をかけたかしれない。」とのこと。
それを聞くと まずは納得、途中で事故に遭うわけにはいかないのだ。
 
ありがたいことに ここマデイラは最高に素晴らしいところだ。
到着してから 毎日 雨に降られるが、晴れ間もある。
2日目には 3カ所で 事故した車を目撃、乾いた地面に降った雨で滑りやすくなっているそうだ。
 
街も可愛らしく、クリスマスの電飾がまだ飾られている。
ホテルのある サンタ・クロスは 12日から15日まで 『聖アマロ』のお祭りで賑わう。
食べ物も美味しいし、物価も安く 居心地良い。
天気が回復したら ハイキングを楽しむ予定だ。