カズコさんからのアドバイスで 高くてそれほど美味しくないというレストランを避け おうちご飯を堪能した。 |
スーパーマーケットの魚売り場には ポケ丼用に魚介類を切ってマリネしたものが 何種類も並んでいる。どれもが見るからに新鮮で美味しそうだ。 |
ホッキ貝と マグロにトビコがまぶしてある物2種類を買い、カズコさんの美味しい玄米ご飯の上に乗せていただいた。 |
ここハワイ島の牛のステーキ、カズコさんが素晴らしいテクニックで焼いてくださり、至福の時とはこのことだ。 |
30日間、簡単な物ですませていた食事だ。つくづく美味しさが染み渡る。 |
何はさておき 食べ物から始めたが この島について。 |
ここは入植者が中国系、日本系の多いところだそうで スーパーの品揃えは垂涎物だ。野菜売り場に ワラビがあり驚いた。何でもあるという感じだ。 |
1868年、サトウキビプランテーションの労働力として、日本からの移民が渡ってきた。あの時代に海を越えることの大変さ、身に染みる。 |
レンタカーで 島を一周した。図らずも真っ赤なアメリカ車に なんか恥ずかしい。 |
鮮やかな多種な樹木の葉と花々、どれだけの種類があることか。 |
このハワイ島には 世界にある全気候帯17のうち2つ(サハラ気候・北極気候)を除く15の気候帯が、存在している。 |
島の北端に近く、パタっと樹木が消え、牧草地帯になる。牛、ヤギ、馬の放牧が見られる。真っ黒い溶岩の流れたところもある。 |
ハワイ最高峰、標高4205メートルのマウナケア山は ずっと雲がかかっていて全く見えない。 |
ハワイを発見したジェームズ・クックは 1779年 ケアラケクア湾で先住民に殺害された。そのキャプテン・クック記念碑を 彼についての本も読んだことだし、湾の反対側から眺めた。 |
何の情報もなく ここに辿り着き 殺害され、何という人生か。『冒険』という言葉が 真に実存していた時代だ。数々の機器で安全を確保できている我々とは 何とかけ離れた航海だったろうか。 |
6月5日、ラナイ島Lanai目指してまた出航した。 |
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アロハ!. なんともなんとも ハワイ入国顛末記です。 |
6月2日、勇んでゴムボートで 上陸しようとしたが、船着場で上陸許可の承認が必要とのことで また船に戻った。 |
メールの返信を待っていたが 来たのがまさかの 私『Mayumi Rohr』の入国は承認されないとの連絡だった。米国税関・国境警備局からだ。もうびっくりして 何事かと 港の事務所に連絡しても要領を得ない。ここに電話しろと来たメールには ワシントンの電話番号があり かけてはみたが通じない。 |
他に手段はと暗澹としていると、明日まで待てとのメールが来る。 |
しかたがない。パスタ、トマトソースはまだいくらでもある。自分用にはご飯を炊いて塩昆布ですませた。 |
翌日 早朝に 「ここに電話するように。」とメールが来た。 |
電話で指示され、再度 申請書をメールで送信すると 即時に 問題なく入国可能と連絡が来た。 |
何が問題だったのか 尋ねると担当者のその人が 「昨日は出勤していなかったから。」と、もうはてなマークが炸裂した。これ以上聞いても仕方ないと お礼を言って、即 陸に向かう。 |
このハワイ島(ビッグ アイランド) Hiloに実は35年来のスイスでの友達がちょうどいるのだ。友達カズコさんの娘さんご夫婦がここに定住されており、カズコさんは今月お留守番を兼ねて滞在されているのだ。もちろん再会を楽しみに連絡を取り合っていた。 |
3日の日も 港まで出迎えてくれていた。なす術なく、結局また出直しを頼み、顔を見ただけで 「また 明日か、明後日???」とご帰宅いただいた。 |
許可の降りた3日、朝10時にまた迎えに来てくれ、旧市街、野菜マーケットへ案内してくれ、我々のレンタカーを借りるため 飛行場に連れて行ってくれた。 |
その後 スーパーマーケットで食材を調達し、ご住居へ。 |
5時過ぎ プロセッコの冷えたボトルとおつまみを持って 海岸沿いまで散歩し、アペリティフとなった。 |
気持ちの良い海風の中、やっとのことで 乾杯、29日プラス1日の太平洋横断と再会を祝った。 |
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6月2日夜中の1時半、ハワイ、Hiloの沖合にアンカーを下ろした。 |
昨日ハワイ時間16:30、陸まで25海里のところで 遠景に島が見えた。 |
昨日は最後の野菜、キャベツと玉ねぎも食べ尽くした。 |
スイスの友達から 尿結石で入院したとの知らせを受け、ああ、そういうこともあるかと、その場合は痛み止めしか対処ないのかと ちょっとおののいた。 |
船のチャット仲間から ガラパゴス付近で釣ったブルーマリーン20kgの冷凍保存に不備があり、乗組員4人全員 ヒスタミン中毒で大変だとの報告があった。1日で症状は回復したようなので大事には至らなかったが そういう事もあるのだ。 |
何事もなく無事 到着できたのは 幸運なことに違いない。 |
これから入国手続きを取るため ゴムボートで陸に上がる。 |
キラウエア火山の噴火がこの5月27日にあり まだ噴火の可能性があるそうだ。 |
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出発前は だいたい今日あたり ハワイに到着予定だったが、風は自由にならない。一応 毎日 順調に風があるのが幸いだ。 |
魚は 1000海里の祝いで食べた一回きりで その後釣れない。 |
あと、ニンジン2本、玉ねぎ1個半、キャベツ テニスボールくらい、卵3個が残っている。パスタ、米は十分ある。缶詰、瓶詰め類も問題ない。小麦粉だと思って買ったのが 米粉だったので(スペイン語表記) 普通のパンは焼けないが、それなりにフォカッチャ風に焼くと美味しい。 |
2週間目ぐらいから気温が下がり、甲板での海水シャワーが寒くてできない。やかんからの湯で 頭髪を洗う。 |
水も まだ十分ある。読む本もあるので 退屈はしない。 |
毎日 夕飯後 二人で カードゲームとバックギャモンでバトルだ。 |
いまだに メキシコ アカプルコ時間を使っているので 夜はなかなか暮れない。徐々に 時間は ずらしてはいる。 |
魚が釣れれば 良き気分転換になるのだが。そのうち 陸地が近づけば 魚もやってくるだろう。 |
5月16日、走行距離はハワイまでの三分の一を過ぎた。 |
周りはとにかく海と空のみだ。海鳥、飛魚が時々 視界を刺激する。 |
朝のコーヒーはルカスが入れてくれる。昨日は疲れていたのか 海水用の蛇口からの水を沸かしてしまいコーヒーを台無しにしてしまったが。 |
Lukas Hartmannの 『Bis ans Ende der Meere』3度目の航海でハワイで殺されたキャプテン・クックの話。 |
E.D.ビガーズの 『鍵のない家』1920年代のハワイでおきた殺人事件についてだが、サンフランシスコからハワイへ向かう旅客船から話が始まる。 |
Debra Bokurの 『Aloha.Tod im Paradies』殺されたサーファーの事件を追う物だが ハワイの神話やいろんな人種のミックスカルチャーが、ハワイ上陸への良き予習になる。 |
Richard Powersの『Das Große Spiel』はハワイでなく南太平洋ポリネシアの話だが、おもしろい。 |
矢口祐人の『ハワイの歴史と文化』ハワイの歴史とともに日系人、パールハーバーとやはり知っておくべきことは多くある。 |
「何も考えず、ただ海を眺めている」状態は、心理学ではマインドワンダリング(心のさまよい)の停止や、マインドフルネス的状態(判断せず 受け入れる態度)に近いとされている。これは脳が「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」と呼ばれる回路から一時的に離れ、現在の感覚や風景に意識を集中させている状態だ。(ChatGPT)水の青色は心を落ち着かせ、水の音(波のリズム)は副交感神経を刺激し、ストレスホルモンのコルチゾールの分泌を抑えることが科学的に証明されているそうだ。 |
広い視野を得られる場所(海や高原など)にいると、脳が「拡散的思考(divergent thinking)」に入りやすくなり、創造性や問題解決能力が向上するという研究もあるそうだ。 |
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午後6時 アペロのノンアルコールビールで1000海里到達を祝った。 |
アカプルコからハワイ、ビッグアイランドのHiloまで 直線距離で 3194海里、5914キロメートルだ。(1海里は約1.852km) |
最初の1週間は 風方向、風速度も一定でなかったが、一昨日 やっと貿易風の圏内に入り 安定した速度で進んでいる。貿易風とは赤道付近で一年中 比較的安定して吹く 北東の風だ。船の後方から風速15から25ノットで吹いている。 |
いつもながら なかなか全て順調とは言い難い。出港して翌日には バッテリーの不調だ。そして 昨日からは冷蔵庫が冷えない。応急処置で 何とかなったが、次はどんな故障に見舞われるか、気が重くなる。 |
深海では魚釣りは難しいようで 獲物なし、残念だ。と思っていたが 何とアペロで乾杯をしている途中、釣り糸の引っ張られる音が。 |
早速 握り寿司にして お祝いの席に相応しいディナーとなった。 |
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実は4月29日に メキシコpuerto Angelの漁港(アンカー停泊)から一度 ハワイへ向かったのだ。風向きが悪く 大きなジグザクを繰り返して走行するばかりでなかなか先へ進まない。結局一度陸に戻ることに決め 北上してアカプルコの港に一泊した。ここは1年半ほど前 風速270メートルというとんでもないハリケーンで大ダメージをうけている。湾内の岩上に建つ多くのホテル、民家が今も廃墟のまま残されている。一応 有名なリゾート地なのだ。 |
港もまだ完璧には修理されていないが 無事 桟橋に着ける。最後のシャワーもありがたい。もう一度 買い物もし、飲み物、野菜果物を補給した。バーのビール、レストランの食事も本当に嬉しかった。 |
そして 5月4日、昼過ぎに港を出た。まだ貿易風の圏内ではないので 風は弱く ゆっくり進んでいる。 |
イルカはたくさんいる。「またイルカ!」だが、何もないところで 船の傍を一緒に泳いでくれるのはやはり楽しい。 |
初日の夜、微風と格闘していたルカス、途中 エンジンをかけたようだ。 |
翌日 朝 起きて様子を聞くと バッテリーの問題があるそうだ。何度聞いてもよくわからないが なんとか応急処置で 先に進むようだ。詳細がわかって 無駄にイライラするよりは ルカスに任せ切ったほうが精神上よろしいので これで良しとする。 |
コンピューターの予想では 早ければ5月27日にハワイに到着する。 |
前回の釣りで 全長1メートルのマグロが釣れ、結局 五日間 さまざまに調理して 食べ切った。刺身、たたき丼、フライ、西京漬(味噌はまだある)、炊き込みご飯と食べ尽くした。 |
この日 ルカスは年に一度の ルカティーティス(ルカス病)と家族からも呼ばれている症状で 体が弱っていた。熱っぽく、関節が痛いと。が出発はしたのだ、走り続けるしかない。 |
こう言う時に、夜は大雨、稲妻もすごく、風向きはしょっちゅう変わり、ゆっくりできない。短時間だが 何回か就寝、翌日には ルカス しっかり回復していた。いつも通り 1日だけのルカティーティスだった。 |
初日に マヒマヒが釣れ、刺身にした。翌日は ボニトとマヒマヒが釣れた。ボニトでポケ丼、夜にマヒマヒをムニエルにして美味しくいただいた。 |
夜間航海中は禁酒を通しているので ビールを飲めないのは残念だ。 |
海に 何か黒いものが浮かんでまた見えなくなる。ルカスが 「ココナッツか?」 私が 「木の幹が流れているんじゃない?」 |
とうとう近くで判別がついた。『亀』だった。ウミガメだろうが 岸から100キロメートルは離れているのに。時に 両手を上げ 首も海上に伸ばした姿も見られる。波の間に間に ひょこっと現れる。もぐらたたきのように 忙しく 海上を見回す。 |
そして 今日 クジラが現れた。黒い背中が船の20メートルぐらいのところに出てきたのには 驚いた。 |
目を凝らして じっと海上を探す。イルカも跳ねている。亀もいる。二人で写真を撮ろうと構えるのだが、そう都合よくシャッターチャンスは訪れない。 |
ちょうど 娘から 孫が動物園で亀を見ている写真が送られてきて 同時発生に笑ってしまった。 |
午後 La Boquilla 砂浜のある小さなリゾート地にアンカーを下ろした。 |
メキシコ、オアハカ州のこの辺りは15年前 グアダラハラに留学していた娘 萌恵を尋ね、家族で旅行したところなのだ。 |
4月16日、エルサルバドルから出港し、グアテマラ沿岸を北上、19日メキシコのチャパス(Chiapas)に到着した。 |
4月23日、ここの船仲間のアンジーとデイブ夫婦と共に観光地巡りをした。 |
朝8時に ガイドのトニーが車で迎えに来てくれる。浅黒さはメキシコ人と変わらないが 目の色がグリーングレーだ。聞くと祖父がドイツ人だとのこと。英語はもちろんのこと ドイツ語、フランス語も堪能で通訳として世界中 巡っていたそうだ。日本語も出てきたのには驚いた。3ヶ月奈良で語学学習したそうだ。 |
定年退職する年頃だろう、友達から誘われて 生誕地のここでガイドを始めたそうだ。 |
まずは イザパの古代遺跡を訪れた。トニーはここの発掘調査での通訳も手伝ったそうだ。 |
それから チョコレート家内工業見学に。代々女性が主になって継続しているそうで、普通の家の中で ごく小規模にカカオからチョコレートを生産している。お昼はここで メキシコ料理を食した。ここで作られたホットチョコレートを飲みながら。その後、コーヒープランタージュへ。ここが トニーの祖父がドイツから来て開いたところだった。何人かのドイツ人の共同経営だった。その当時のオーナーの家が 今はレストランで、三階が展示室となっている。標高の高いところにあり、何もないところにコーヒーの木を植えていったのだそう。 |
第二次世界大戦中は ドイツ人も日本人と同様 強制収容所に入れられ、コーヒー園も没収されたそうだが、戦後 また取り戻したそうだ。 |
トニーは ドイツの国籍も持っているそうで、苗字もドイツ名でTöpfer だが、ここでは öのウムラウト無しの表記だ。 |
ガイドとしての説明も 通訳もとてもわかりやすく 気持ちよく観光できた。 |
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港の入り口は サンドバンク(砂州)があり、激しい波が打ち寄せている。去年 ここでヨットが砂に乗り上げ 沈没している。 |
港に着くと すぐに ウェルカムドリンクで出迎えてくれたのが ビルの妻ジーンと娘アニタだ。 |
彼らは 毎日夕方4時から自宅のプールを開放 皆を招いている。プールといっても 円形の小さなもので ただ浸かっているだけだが。飲み物持参で参加する。 |
アニタは休暇でサンフランシスコから訪れているとのこと。ビルとジーンは 13年前にここに移住している。交換留学生で日本人を受け入れたことがあるそうで、彼らも日本での滞在経験がある。まだ治安の悪かった時代(2大ギャング抗争)に 日本から高校生が来ていたとは おどろきだ。とは言え ここ郊外のリゾート地は さほど危険ではなかったのだろう。 |
和食が大好きと言うアニタは 蒲焼ソースはいつも備えており、ウナギはないが他の魚で食していると。ビルはお好み焼きが得意だそうだ。 |
翌日行ったレストランでは 隣のテーブルのエルサルバドル人家族に本当に良くしてもらった。 |
ロスアンジェルス在住の娘と夫のダリアン(キューバ人)の夫婦が 休暇で家族と過ごしているようで、お兄さん(アレハンドロ)夫婦と母親が一緒だった。 |
我々のセーリング生活にすごく興味を持ってくれ、話は弾んだ。キューバには2度行っているし、とても気に入った国なのだ。 |
ちょうど そこにレストランへ配給する野菜のトラックがきた。野菜の在庫の少ないのを憂えて、「あの野菜 小売りしてもらえないか、通訳を頼めるか。」と聞くと、即座に アレハンドロが 対応してくれ、山ほどの野菜を購入、料金まで払ってくれた。なんとその間 ダリアンが 我々の食事したものまで払ってくれたのだ。 |
2019年就任のブケレ大統領のギャング撲滅対策が功を成し、殺人発生件数は50分の1になったそうだが、人権問題などが生じているようだ。 |
今日はこれから ビルのところで 「ププサ」パーティだ。 |
まだ パナマの島々を北上している。大小様々の島が 緑豊かに点在している。 |
Bahia Hondaでアンカーを下ろした。船仲間から 物々交換で 果物、野菜が手に入るとは聞いていた。すぐに、カヌーに乗った住人と、モーターボートでも親子がやってきた。2件ある家からだ。 |
「果物は いるか?」お互い カタコトのスペイン語と英語で話をする。パイナップル、バナナ、パパイヤを持ってくると言い、Tシャツ、ズボン、靴などと交換したいと。即 コーラは求められた。 |
果物を持って またやってきた彼らは、ボールペン、牛乳、お菓子、洗剤なども要求してくるが あいにく あまり十分な在庫がない。Tシャツ、半ズボン、電池、スイスアーミーナイフ、靴、牛乳、ビールと交換した。 |
そして インターネットを使わせて欲しいと。これは問題ない。暗くなって どこからか3人乗りのボートで若者が現れ、やはり 「インターネット」と。結構 長く 船の周りで 皆が携帯を片手に、電話もかけている。 |
食事はこの日釣れた2匹のボニト(カツオ)の刺身と 白子とタラコのような卵の煮付けだった。 |
夜中の雄鶏の声にはうんざりしたが、朝、鳥の鳴き声、猿の雄叫びなど 自然の中にいることを認識する。 |
朝のコーヒーを飲みながら イルカが飛び跳ねるのを眺める。 |
セーリングをする人々は 実にいろいろな背景を持っている。 |
パナマ運河通過を手伝ってくれたスイス人ペーターとドイツ人レナータのそれには 少々 動揺した。 |
彼らは3年前から カタマラン(双胴船)に乗っている。 |
これは「動く住まい」と呼ばれるように船内スペースが広く、ゆったりと航海できる。安定性も良く 初心者に適している。因みに我々にはない冷凍庫、洗濯機、クーラーも設置されている。我々の船は 走ることに重きを置いているので 快適さはかなり劣っている。 |
それはさておき、なぜ 彼らがセーリングをするようになったのかは 本当に驚く。3年前にペーター(現在65歳)は パーキンソンの診断を受けた。まだ 体は普通に動かせる。すぐに行動に移す。まず 機械エンジニアで自分の会社を経営していたペーターは 即、会社を売却し、カタマランを買ったのだ。たまたま見つけたユーチューブでパーキンソンの人がセーリングをしているのを見て、決断したそうだ。 |
ギリシャで スキッパー(ヨットのキャプテン)を雇い、一緒にセーリングをして 技術を学んだ。財力があったからこそできることだが、やはり ハンディを負いながらも 新しいことに挑戦すると言うのは すごいことだ。 |
二人は 子連れで再婚したパッチワークファミリーだが、子供たちは皆成人している。 |
ピーターは手の震えで すでに手書きはできないそうだ。 |
船の書類事項は レナータがキャプテンとしてサインするしかない。船の操縦や作業は 問題なくこなせるようだ。仕事のストレスから遠ざかったことは 体に良いには違いない。 |
夫婦でセーリングを楽しめると言うのは これが最良の選択だったということだろう。 |
彼らは来年1月に パナマ運河を通過し、南太平洋へ向かう。 |
今期 11月20日にスイスを出発してからすでに4ヶ月が過ぎてしまった。 |
リントン・ベイでの船の修理に時間がかかったのと、3月初めにルカスの父親の訃報を聞き 3週間 スイスへ急遽帰国 滞在していたのだ。 |
全ての準備が整ったところで パナマ運河通過のための手続きを開始した。我々の希望の日時でなく 支持された日程に従わなければならない。3月22日との知らせを受けたのは その2週間前だ。 |
3月8日、リントン・ベイを出港、パナマ運河の出発地点 シェルター・ベイに到着した。この港での 運河を通過予定の人々との交流は楽しかった。これまでの行程、今後の予定は 皆それぞれだ。 |
運河通過後は買い物などは不自由になるため およそ3ヵ月分の水、長期保存の食料を調達した。 |
運河通過の船は 閘門内と外とを繋ぐザイルを保持するため 最低5名乗船しなければならない。 そのためのWhatsAppのチャットがあり、そこで募集する。港で同じく停泊していたアメリカ人マークス、スイス人ペーターとドイツ人レナータの夫婦が手伝ってくれることになった。 |
実は 2月の終わりに ロジェ、ブリギット スイス人夫婦の船で 我々は ザイルの手伝いで乗船、一応 経験済みなのだ。 |
22日 午後3時半に 出発、運河前で アドバイザーのエドワルドと合流した。今後はエドワルドの指示に従う。 |
閘門前で 3隻の船を平行にザイルで繋ぐ。我々は右側だ。 |
まず、大型のタンカーが前を進む。その後 我々が続き 閘門内で 両脇から ザイルを受け取る。 |
水門が閉まり、水位が上がってくる。閘門は上流に向かう3つと、下流に向かう3つがある。それぞれ高低差9メーターだ。水位が最上位まで来ると 前方の水門が開き前へ進む。 |
これを3回繰り返して、ガルトン湖に到着、ここで一泊するのだ。 |
3隻がまたバラバラになり、それぞれ大型ブイにザイルで固定する。途中で雨が降り出し、ザイルの担当者は ずぶ濡れになってしまった。もちろん寒くはないのが救いだ。ここで アドバイザーのエドワルドはボートの迎えが来て帰宅する。 |
夕飯は 日本のカレーだ。翌日 8時前に アドバイザー リックが合流した。おしゃべりなリックは 学生時代 日本を旅行したと いろいろ 話をしてくる。寝巻きの浴衣を失敬して、偽物だけど刀も買って 今も大事に持っているんだと、57歳が言う。 |
6人分の昼ごはんの支度は結構大変だ。マークスもペーターも日本へ行ったことがあり 和食ファンとのこと。仕方ない、寿司を作るしかないではないか。新鮮な魚は手に入らないので 焼き豚を事前に作っており、それと アボガド、キュウリをあしらって ポケ丼にした。 |
昼食が終わる頃、水門前に到着した。かなり大きな人工湖なのだ。また3隻が繋がれ、閘門に入った。下りは大型タンカーが後ろになる。 |
閘門内は水位が最上位で 水門が閉まると水位が下がる。 |
いよいよ3つ目の閘門の水位が下がり、水門が開くと、そこは 太平洋なのだ。 |
水の色が変わるわけでもなんでもないが、とにかく 太平洋なのだ。 |
港まで 2時間ほど走り、夕方4時に アンカーを下ろした。 |
手伝ってくれた人々をモーターボートで岸に送り、大イベントは終了した。 |
3月8日、リントン ベイを出港、パナマ運河近くのシェルター ベイに到着した。 |
2ヶ月以上滞在した港を去るのはなかなか感慨深い。作業員でほぼ毎日 顔を合わせたホセ、セーリングショップの可愛いアイリーンとオーナー夫婦、レストラン関係の人々、知り合った船仲間、楽しい思い出だ。 |
港にある「ブラック パール」は眺めの良いテラスで食事を楽しめる。が、メニューに変化がなく、5種類のメインディッシュのみだ。「エビとライス」「ハンバーガー」「ブフ ブルギニョン」「ローストチキン」一応 全部食べてみた。不味くはないが 何度も食べたのは「エビとライス」ぐらいのものだ。フランス人女性がオーナーだ。 |
港の敷地内にある「カーラのフルーツ」は昼食のみなので一度 チキンとライスを食べたのみだ。ポケボールもあるが これは自作に限る。ルカスはここで飲むフレッシュジュースの大ファンで ほぼ毎日 パイナップルやマンゴーなどなど楽しんでいた。 |
もう一軒の港内のレストランは芝生樹々の中にあり 蚊を恐れる私は 一度 肉料理を食べたのみだ。 |
港からモーターボートで15分くらいのパナマリーナ(小さな港)にあるレストランは皆の一押しだ。シェフはフランス人で ラザニア風のもの、ステーキなどが美味しい。モーターボートでは イスラ・グランデという島のレストランへも行った。おばちゃんが一人でやっている食堂だが、人伝てに美味しいと聞き、「何時から夕飯?」と聞くと「6時」、お互い片言でしか会話できない。6時に行くとなんと 「6時までオープン」とのこと。しつこく ここが美味しいと聞いてきたと粘ると、おばちゃん、「これしか出来ない。」と魚のフライとライスを作ってくれた。陽気なかわいいおばちゃんだった。 |
港から徒歩10分くらいのところにあるピザ屋のピザは ほんとうに美味しい。コロンビア人のシェフの焼く手作りのものだ。何度か 船仲間と ワイワイ ここでピザを食した。ピザしかない。しかし 大問題が。このコロンビア人、麻薬の売買で投獄されてしまったのだ。5年から10年の刑になるらしい。我々は十分食して満足しているので支障はないのだが。 |
ほとんどは船内で ベジタリアン風のものばかり食べていた。週2回くる野菜売りのトラックは 魚介類はエビしかなかった。このエビは美味しい、がこれも毎日食べたいとは思わないし。鬼殻焼き、天ぷら、スパゲッティにした。 |
さてここシェルター ベイにはどのくらいの滞在になるのか まだ未定だ。これから パナマ運河を通過するための手続きを始める。こちらからの希望は通らず、指定される日時に従うのみだ。 |
ここに到着前に釣ったマグロの刺身、寿司が昨日の夕飯だった。 |
港には いろいろな専門家がいる。ソーラーパネルの土台を設置してくれたルイは コロンビア人だ。港の端にコンテナを置き、夫婦で住んでいるようだ。作業場は簡単な屋根があるだけだ。溶接が専門のようで 港での需要は大きい。他のボートに追突され ダメージを負った船の修理やら、我々のようにソーラーパネルの設置やらで忙しそうだ。見積もりで契約しているので 作業時間は関係ない。さっさと済ませれば 実入は多いだろうと思うのは こちらの勝手な推測か。とにかく のんびりと 「5日くらいかかる。」と言っていたのが 途中で追加や変更があったのは確かだが 終了したのは 1ヶ月後だった。途中で2、3回 作業代の一部を先に要求されたのはご愛嬌か。ビールも結構提供した。珍しくも英語が話せるので コミュニケーションは楽だった。 |
冷蔵庫の故障を修理してくれたのはメルビンだ。ジャマイカと描かれたバッグを持っていたので 「ジャマイカから?」と尋ねると ベネズエラからだった。ここには 夫婦で滞在しており、息子はコロンビアにいると。政治のせいで 家族バラバラだと 寂しそうに言う。 |
シモンはミュンヘン近くから来ている35才のドイツ人だ。電気系統が専門らしい。3年程 ここにいるそうだ。バーンアウトで仕事を辞め アジアに行こうか南アメリカに行こうかと、ここになったそうだ。コロンビアに子連れ(9才)のガールフレンドがいる。ドイツやスイスからの遠隔での仕事もあるようだ。ここでセーリングを覚え、誰かから譲ってもらったカタマランヨット(双胴船)を 一年以上かけて 自力で修理している。「ドイツの こんな表情の人々と接するのはもううんざり。」と口角を下げてみせる。我々の船の備品をパナマまで行き買ってきてくれた。 |
マイクは 30代のアルザス出身のフランス人だ。 背景まで聞くことはできなかったが エンジン修理の専門家だ。我々のエンジン不調の原因を見つけてくれ、発電機の故障の原因も突止めてくれた。魅力的な同郷のガールフレンドが一緒だった。 |
明日は 車を借りてパナマまで行き、必要な備品を購入する。 |
Linton Bayに到着して 41日目となった。 |
ソーラーパネルの設置は終了したが、回線にまだ不備がある。あと細々とした修理をルカスが 黙々とこなしている。まだ届かぬ機具もある。ほとんどはアメリカから送られてくるが 税関で時間を取られている。アメリカの新大統領の影響はまだ直接には受けていない。 |
港内だけでなく アンカーで停泊している船も多くあり、結構な人の行き来だ。ヨーロッパからの船はやはり多い。 |
この港へ同時期に入ってきたFANGO (9.75m)のキャプテンは ヨハネス・リーだ。最年少で世界一周セーリングを目指し、大西洋を単独で横断した。 |
現在 21才、名前からも容姿からもアジア系だとは思った。 |
ヨハネスが生まれたドイツのエアフルトの環境は、決して恵まれてはいなかった。母親からの暴力によって、わずか9歳で孤児院に送られることになった。父親は中国人であったが、彼が生まれる前に行方不明となり、家族の中に父親の存在はなかった。そのため、親戚とのつながりもない。 |
ホームでは慈善団体の助けもあり、海岸で何度か休暇を過ごすことができ、ここで彼は海とウォータースポーツに魅了された。 |
初のアスペルガー自閉症の単独大西洋横断ということでスポンサーを募り、2023年7月にこの1988年建造のこの船を手に入れ、改装し、2024年、3月6日、カリブ海に向けてラスパルマスから単独で出航した。 |
カリブの島で出会ったアンナ・レナは 23才だが、すでに癌のため子宮を失っている。看護師だった彼女はそれを機にもっと何かしたいと ヨハネスとのセーリングに臨んだのだ。 |
ヨハネスは、アンナ・レナは ガールフレンドではなく、ただのセーリングパートナーだとは言っているが 真偽はもちろん不明だ。 |
単独ではなくなった彼は スポンサーを失ったそうだ。が、電気技師として、航海中もいろいろな船からの要望で修理など行い、航海費を稼いでいる。 |
我々のMAYONA も新しいバッテリーの回線などを手伝ってもらった。 |
アスペルガーらしさそのまま、キッチリした作業が頼もしい。コミュニケーションは取れるが、やはり普通の「会話」でなく 一方的な話が多い。 |
痩せて、フサフサ黒髪アジア顔に やはり息子を重ねてみるのは母の常か。料理はしないという彼に ご飯を作るのは苦ではない。アンナ・レナが一時 ドイツに帰っている間、一緒に食事をし、話も聞いた。 |
北西航路(Northwest Passage)が目標だそうだ。 |
とにかく まだまだ若い21才、大変なことがごっそり待ち受けているに違いないが、残り人生を楽しむ私には 「がんばってね。」と手を振るしかない。 |
1月24日、ドイツ出身の航空宇宙エンジニア、ルディガー・コッホ(59才)が、世界最長の120日間の「水中生活」を 減圧せずに達成し、ギネス世界記録を更新した。 |
2日前から港は 何か普段と違っており奇妙だった。作業員は念入りに、片付け、掃除をしており、前日は ヘリコプターが飛び交っていた。港からのお知らせは何もなかったが、いろいろルカスが情報を集めたところ、ギネス世界記録のパーティが我々のいる港のレストランで催されるとわかった。 |
パナマを拠点とする最新海洋テクノロジー専門企業「オーシャンビルダーズ」のの「革命的ポッドハウス」だ。海中11メートルに沈めらえたカプセルは 広さ30平方メートルで、ベッド、トイレ、テレビ、パソコン、インターネット、さらにはエアロバイク、ソーラーパネルと予備の発電機など、現代生活に必要なほとんどの設備が備わっている。狭いらせん階段で接続されている海上の別の空間から食料が届けられ、医師を含め、訪問者もこのルートを利用していた。 |
このチャレンジによって、人間の生活や居住継続可能な場所に関する概念に変革をもたらしたいとの考えを示し、「海が人間の居住環境の一つになり得ることを示せるかもしれない」と語っていたそうだ。 |
仏小説家ジュール・ヴェルヌの「海底二万里」のネモ船長のファンだというコッホ氏の ベッドサイドテーブルには、この本が1冊置かれていた。 |
カプセル内では4台のカメラが動きを撮影。日常生活を記録し、精神面の健康状態もチェックしながら、コッホ氏が一度も水面に浮上しなかったことを証明した。 |
セレモニーの時間ははっきりしなかったが、レストラン前でセキュリティに聞くと、「もう彼は 中にいるよ。」 港に着いたところに居合わせることはできなかったが パーティ会場で スピーチは聞けた。しっかり便乗して、コッホ氏と握手もした。華やかなコンゴダンスも見ることができた。叫んでグルグル回っているだけだったが。 |
「頭上からのシャワーが一番恋しかった。」そうだが ワインもウィスキーも十分あったようだ。 |
窓もあり 水中を泳ぐ魚も見られ、そんなに閉塞感はなさそうだ。インターネットもあり 食事は十分にあるのだったら 私も3ヶ月くらい篭っていられると 真に思う。ピットコインで財産を成したコッホ氏だからこそできたことだが。 |
船の移動は楽しいが、水上の定位置にずっと暮らすのは興味がわかない。 |
ハリケーンや台風のことを思うと 海上生活がそう簡単にできるとはどうしても思えない。 |
ガイドのパスカルはアルザス出身のフランス人、ドイツ語も堪能だ。見かけは 正に 『クロコダイル・ダンディ』で 迷彩色の服に長靴、刀のような長めのナイフを持ち 前を進む。 |
国立公園Portbelloポルトベロを流れる川 Rio Indio リオ インディオを辿って歩く。苔むして滑りやすい石が多いので くれぐれも気をつけるよう、そしてゆっくり進むよう指示される。 |
長く降り続いた雨も止み、上空を見上げると高い樹々の様々な種類の葉の間に 青空が 美しい。 |
ちょっとの物音、動物の匂いで パスカルが「あそこにサルが。」と指差す。遥か上の枝から枝へ移るサルが 瞬時 見られる。港で 朝夕 聞く雄叫びのサルとは違う種類のサルだ。 |
川の水は澄んでいて 小さな魚も見られる。岩に張り付いて 魚を捕まえようとじっと待機している蜘蛛がいる。パスカルに言われないと なかなか岩と同色の蜘蛛は見つけられない。 |
葉蔭のコバルトブルーと黒のまだらのカエルは小さいながらもツヤツヤときれいだ。が 毒を持っている。毒蛇もいるそうだが 今回は出てこないようだ。 |
大型の薄紫と黒の蝶々がヒラヒラと1匹舞う。これも一瞬のことなので 見ることができて幸いだ。 |
小さい滝の前で 「ここが写真スポット。」パスカルが写す。日本人は 私で二人目だそうで 宣伝用にしたいそうだ。 |
昼間は出てこないが ジャガー、イノシシ(Pikari)、ナマケモノ、クジャクのような鳥、などなど ジャングルには動物は たくさんいるようだ。夜間ガイドツアーもあるそうだが、そこまでして 動物を見たいとは思わないので これはいいとする。ジャングルはもっと暑苦しいところかと想像していたが 風も渡って 気持ちの良いところだった。 |
ジャングルの入り口近くに パスカルは住んでいる。そばに 沼があり ソーセージを持って ワニを誘き寄せてくれる。小型のワニ(カイマン)を パスカルがフランス語で 犬にでも呼びかけようにして 池から草地へ上げた。あちこちにワニはいるようだが 初めて目にした。 |
2時間のハイキングで 深い緑の中を気持ち良く歩け、船の修理がまだまだ続く中、良い気晴らしになった |
ニュースレター86、1月9日 Linton Bayに到着してから ほぼ2週間経つ。 |
ソーラーパネル設置のための設備を依頼し、バッテリーや、無線器具などなど 注文している。1週間後と言われたが、アメリカからのコンテナ輸送も期限通りにはいかないようで まだ届かない。これには慣れた。ご近所の船の人達も いろいろ注文しているようで、皆 苛立っている。 |
やっと雨も上がり、時間もあるしで、近くの観光地へ出かけることにした。 |
ポルトベロPortbelloは ここからバスで行くことができる。港のとても親切な事務員が 「バスで行くのは 冒険ね。」もちろん 時間通りには来ないらしい。 |
バス停で待っていると 港で顔見知りのオランダ人が車で同方向へ行くようで 乗せてもらった。20分程でポルトベロに到着した。 |
道路から 教会の品のない薄紫に塗られた教会の塔が見える。きっとそのペンキが安売りだったに違いない。 |
教会内には有名な「黒いキリスト」が置かれている。その前で犬が ベタっと転がっている。10月21日には盛大なお祭りが催される。ピラピラした安っぽい飾り付けのしてある教会で マリア像も同類だ。敬虔に厳かに接するには 少し距離がある。信仰心があれば別だろうが。 |
ここは1597年にスペイン帝国がペルーの鉱山から財宝を(地峡の太平洋側にあるパナマ・シティを経由し、陸路でポルトベロへ)スペインへ輸送するために使用する港として設立された。 |
元々は1502年にコロンブスが「美しい港」を意味する「プエルト・ベロ」と名付けたとされている。 |
ここのサン・フェルナンド要塞はユネスコ世界遺産に登録されている。 |
イギリス人からは英雄とみなされる一方、スペイン人にとっては 海賊でしかなかった フランシス・ドレーク(1543年頃-1596年)は この近くで赤痢により死亡し、鉛の棺に入れられ海中に埋葬された。イギリス人として初めて世界一周を達している。 |
見渡しただけでも 3隻の船が 斜めに沈んだままほって置かれている。 |
他には見るべきものは何もないので ミニスーパーマーケットでちょっと買い物をし、バス停でバスを待つ。ミニスーパーはどこも中華系が経営している。さすが華僑、だが、小綺麗な場所には程遠い。 |
時刻表もないが 中学生くらいの学生や買い物をした人たちが待っているのでおそらく大丈夫だろう、道は一本しかないし。 |
やってきたのはディーゼルで走るバス、車掌さんもいるようだ。座席はボロボロ、最後尾に大型スピーカーが設置されており 大音響でラテン系の音楽がずっとかかっている。港までは田舎風景だが どうも降りたいところで降りれるようだ。ちなみに ドアはない、というか閉まらないようで ドアのあるべきところに車掌さんが立っている。 |
ニュースレター85、1月4日 Guna YalaからここLinton Bay(パナマ)までの3週間、曇りか雨で 雨季が終わった様に思えない。 |
ここLimton Bayでは 毎日 雨だ。船の中では 雨音が大きく響く。暑さからは免れているのが幸いだが、湿気で鬱陶しい。 |
31日のニューイヤーズイヴは 港のレストランへ。7時過ぎに行き、前日 ここに到着したカナダ人夫婦と セクトで乾杯。一人でセーリングしているという フランス人のバイオリン奏者が 食事中 演奏してくれる。なぜか ビゼーのカルメンから始まり、クラシックのみならず ポップまで。子供達のいる家族は 早めに退席、我々シニア組も夜中までいられず、年明けは翌日に持ち越す。 |
1月2日、このレストランで クリスマスに一緒だった人達と再会する。キャプテンのサイモンと カナダ人のエルがいた。「ブラジル人のアンドレアは?」食事はここでしないそうだ。 |
エルがタバコを吸いに席を立った時、サイモンが話し始める。「船の故障は問題だが こんな問題は初めてだ。」同乗の二人の女性が全く合わず、とうとう大喧嘩をし、アンドレアが予定を早め帰国するそうだ。そこへ シャワーを済ませたアンドレアが 登場。まだエルはいない。サイモンが 「できれば 君が残って エルに去ってもらいたい。」サイモンの船に 別々に知人として同乗している二人( おそらく50代後半)だが、どういう関係か全くわからない。彼は 三年前に離婚したスペインに住むアメリカ人65才で 「そろそろ パートナーと一緒にセーリングしたい。」と チラッとアンドレアを見る。 |
アンドレアは ブラジルから 10年程前にノルウェーに移住し、離婚したばかりだ。ブラジルでの金の鳥籠生活に将来を憂い、子供達の将来のため 移住したそうだ。17才だった娘は自由な生活を楽しみ、息子は慣れず、今年からバルセロナで大学生活が始まる。「息子が、私に 近くにいて欲しいというんで バルセロナに住む計画をしている。」息子にベッタリな感じだ。 |
エルが席に戻り、微妙な雰囲気だ。エルは独身で福祉関係の仕事をしている。痩せて 気の強い感じだ。明るく魅力的なブラジル人が 場を和ませるのは確かだ。 |
哀れサイモン、また新しい乗船者が来るらしいが 人間関係は面倒なことだ。 |
ニュースレター84、12月29日 Guna Yalaの島々を巡りながら パナマに向かっている。 |
コロンビアでの最初の蚊の襲撃から 一月以上経つが その後もあらゆるところで蚊に刺されているので 明るい赤から暗い赤まで ハシカにかかったときのように両腕、両足は点々におおわれている。痒さは半端でなく おそらくアレルギー反応を起こしていると思われ、抗ヒスタミン剤を服用した。が、持参の10錠では終わらず、その後 お酢の湿布とかしてみたけれど おさまらない。とっくに痒み止めクリームの効果はなし。夜も熟睡できなく、とうとう 睡眠薬まで服用した。 |
パナマに近づくごとに 船が増えて来た。この界隈を航行する船仲間のチャットがあり そこに 「誰か抗ヒスタミン剤を持っていないか?」と聞くと 近くに停泊していたスペイン人(バレンシアから)カップル クララとミゲルが 余分な薬を分けてくれた。薬の効果はやはり すごい。気が狂いそうになる痒さから解放される。 |
12月24日、Chichime島のクリスマスパーティに参加する。 |
25日は クララ達に誘われて 隣の小さな島Little Chichimeで祝う。 |
Guna人ラウルが その日に豚を海の中でさばき、8時間かけて バーベキューした肉とココナッツミルクで煮たライスが供された。 |
参加者は様々、クララ達、スペイン人とフランス人カップルと3人の子供達、オーストリア人の物理教師クリストフ、離婚したばかりのノルウェーから来たブラジル人マダムが船のキャプテンと、スイス人の一人でセーリングしているマーティン、スイス人カップルのマガリーとティエリ などなど20人ほどいた。 |
ラオルが大きなナイフと手で 肉をさばいて 皿に盛ってくれる。全て手づかみだ。クララが「クリスマスは大勢が一緒に楽しむものよ。」 |
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ニュースレター83、12月23日 12月20日、8時過ぎに アンカー場所から Ustupu島に上がる。 |
船着場の近くのレストランでコーヒーを頼む。魔法瓶とカップにネスカフェのひとカップ分の粉コーヒーが添えられて来る。 |
昨日 7時から祭りだと言われていたが どうも静かだ。そこへ 前日知り合ったアンドレスがやってきて 祭り会場に案内してくれた。 |
まずは 木製の容器に入れられた飲み物を 小さなお猪口のようなもので供される。Innaと呼ばれていたが サトウキビのお酒のようだ。断るのは憚られ 一応飲む。甘くて美味しいが 朝っぱらからお酒は勘弁して欲しい。ルカスは 大きなカップで勧めら、一杯では済まないようだった。 |
すでに 男女皆 賑やかに飲んでは飛び跳ねている。「こちら側が女性、あちら側が男性」と区切られているようだが 厳格なものではない。 |
ピンクのシャツを着た祭りの主催者が、挨拶してくれる。3年間 ジュネーブの近くのホテルスクールに行っていたそうで 英語が話せる。 |
「ここでは 自分の所有というものがなく、全ては 共同だ。そういう社会が スイスではとても恋しく思われた。」「フォーク一本で足りるのに ああもたくさんのナイフ、フォークを揃えることは考えられない。」「肉の焼き方をいろいろ尋ねるのも おかしなことだ。ここではしっかり焼くか、煮込むだけだ。」対岸の本土で、野豚、シカなどの狩りもするそうだ。 |
ここにいると やたらとお酒ばかり勧められるので アンドレスが自分の家に案内するというのでついて行く。小さな家の中は 入ってすぐ右手に台所があり、至る所にあらゆるものがあり洋服が掛けてある。戸棚、タンスというものがないのだ。ドイツ人が書いた本を見せてくれる。彼のことが書かれているようだ。やはりヨットでセーリングをしている夫婦らしい。 |
奥の部屋は ミシンが置いてあり 『Guna Yala』の国旗が縫われている最中だった。アンドレスが 「明日 これを持って あなた達の船に持って行く。」 |
それから奥さんと子供達(息子と娘)のいる雑貨店へ連れて行く。 |
アンドレスは キューバのフィデロ カステロのところで働いことがあるそうで、その関係で 1年間 モスクワにも行っていたそうだ。 詳細を知りたかったが 翻訳機を仲介していると 面倒だ。 |
アンドレスの話は終始 彼の祖父がリードをとった革命についてだ。 |
1925年にパナマからの独立のために戦い、自治権を勝ち取ったのだ。来年は100年記念だ。 |
「My pleasure, you are here」とバーの中から時々現れる70歳くらいの男性が、酔っ払い度が高くなり、民族歌まで歌い出す。パナマの港で働いていたそうで英語が話せる、とはいうものの理解するには苦労しているのだが。 |
通りすがりの人々皆に アンドレスが「スイス人、日本人」と紹介する。祭りの会場からだろう、二人の女性に介助してもらいながら ぐでんぐでんに酔っ払っている女性が通り過ぎる。「祭りの日は 男も女も こんな風になる。」そうだ。 |
どうも ルカスとアンドレスが同じ年だとわかり 盛り上がっている。急に二人で 雑貨屋に行ったかと思うと ルカスが 革命の祖父の絵入りのTシャツを着て出てきた。 |
今日は娘の誕生日、電話したいが Wifiのあるところはないかと聞くと 案内すると。そこへ行くまでに まず彼の兄弟のところへ。絵描きのようで 家はギャラリーとなっている。鳥の羽にフクロウの絵が描かれたカードを購入。隣の部屋にいた息子が 出て来る。アルビーノのようだ。僻地の常でアルビーノの確率は高いそうだ。日本のマンガが好きで 自分で描いた、マンガの女の子の絵を見せてくれる。インターネットはそれほど普及していないようだが どうやって情報を得るのだろうか。 |
やっと Wifiが繋がるところへ。大家族のようで、年寄りから若者まで 7、8人はいただろう。裏庭のようなところで のんびりしている。一人の中年女性は 手で 魚を食べている。そばには タッパーに入った魚が置いてあるが、この暑さで 大丈夫なのか。 |
やっと 娘におめでとうが言え、息子にも連絡がつき安堵する。1ドル支払った。 |
翌日 出発間際に アンドレスが娘達と船を見学に来た。約束の国旗は 「昨日は飲みすぎて 仕上げられなかった。」 前金の5ドルは何なのだ。 |
来年2月の独立祭は 盛大に催されるようだ。どれだけの Innaが振る舞われるのだろうか。 |
ニュースレター82、12月18日 12月16日、前日Tintipan から夜間航海し、10時半に Puerto Obaldiaに到着する。 |
朝4時頃 同じ方向に進む船『Fantasia』から無線が入る。2隻並んでアンカーを降ろす。ここで 無線の故障も判明、パナマで新しく購入せねばならない。 サン・ブラス諸島(San Blas Islands)はスペイン人が与えた地名で現地の人はそれを好まず、 Guna Yalaと呼ぶ。パナマ国に属するが 自治区だ。 |
ココナッツの木は所持者が決まっており、落ちている実さえも勝手に取ることはできない。女性がお金をコントロールし、夫となる人が 女性の家に入る。結婚年齢は定められていないが、十分成熟したと判断されたおり、女性が夫を選ぶ。 |
多くの(どのくらいかは知らないが)外観は男性のGuna人は 自分が女性だと信じ 女性の格好をし、長い髪、言葉、仕草も女性として認められており、非難されることはない。 |
17日、Fantasia の ロジェとブリギットと一緒に モーターボートでPuerto Permeに上陸 散歩する。彼らは以前キューバで知り合ったスイス人だ。 |
南アメリカからの密入国者がジャングルを経由してパナマに向かうようだ。 |
赤茶けた土の歩道に 緑の葉を高く掲げて運ぶ蟻を見る。 |
思い出した。小川洋子著「人質の朗読会」で 描写されている『ハキリアリ』だ。ジャングルで昆虫の研究をする日本人の来訪を受けての話だ。「頭と顎を使って、自分の体より大きい葉っぱを高く掲げる。まるで天に供える捧げ物を運ぶ勇者のようじゃないか。標識も地図もないのに、何千何万というアリたちが、迷うことなく巣を目指して歩いてゆく。(略) ジャングルを静かに流れる、緑の小川だ」 |
本の中で場所は特定されていないが、『人質』『ジャングル』というと おそらくコロンビアのことだろう。ここのジャングルもコロンビアに続いているのだ。 |
村は全体にこぎれいなな感じだ。屋根は 干した椰子の葉が被せてある。4時くらいに 女性が銅製の鐘をガンガン叩く。箒を手にした女性が集まり 地面を掃除する。皆 民族衣装を着けている。いろんな刺繍を施した布、膝下はビーズの編んだものを巻き付けている。 |
子供が多い。家々に シンガーミシンが置いてある。子供の頃見慣れたあの古い黒い型の。 |
『Mola』と呼ばれるアプリケットと刺繍の布は女性が作り販売している。2時間ほど散歩して 「ここでビールでも」と思ったが 一つあるバーらしきものは閉まっており 小さな二つの店には両方ともビールは置いてなかった。きっと皆 健康的な生活をしているのだろう。 |
9 時過ぎ 手漕ぎでTintipan島のホステルMedusaにゴムボートを繋ぐ。パイナップル・ジュースを頼んだつもりが 角切りのパイナップルはそれはそれで もちろん美味しい。 |
ホステルから10時半にIslote島に向かう。ホステルの主人がエンジンをかけ、7歳か8歳の息子が一人前に ザイルを使って手伝っている。 |
目前の島にはあっという間に着き、案内の女性を紹介される。エリカはターバン風に髪を包み、短めの白いタンクトップ、赤い伸縮性のショートパンツ姿だ。若そうなのだが 14歳の息子と9歳の娘がいるそうだ。英語はどうやって勉強したのかと聞くと、自分でインターネットで学んだと。いずれ 資格をとって英語を教えたいと言っている。この島で生まれ育ったそうだ。 |
230年前にカルタヘナから来た人々が コンクリートで固めて 島にしたそうだ。100mx120m、1.5ヘクタールの人口島だ。800人程の住人が 皆家族のように暮らしているところだ。戸に鍵をかけることもなく警察もなし。教会はあるが カトリックではないそうだ。コロンビアでカトリックでないとはどう言うことか不明だ。 |
仕事は漁師か、観光業のみだ。ただ家々がひしめき建っているのだ。木々も草木もない。一つあるホステルに植木の木が何本かあるだけだ。そのため 蚊もいない。島には 小学校があり、近隣の島からも来るそうで200人くらいの子供たちが学んでおり、教師は11人いるそうだ。診療所もある。妊婦は妊娠8ヶ月になると 皆 カルタヘナの病院に行かねばならないそうだ。ここには 小さな水族館もある。ただ囲って サメや、亀 何種類かの魚がいるだけだが。 |
エリカは 祖母とずっとここで暮らしており、姉がボゴタに住んでいるので いつか訪ねに行きたいと。家族構成はよくわからない、何せ 皆 家族同様なのだから。 |
壁に描かれたPepeは いつの頃の人か知れないが、4人の妻、18人の子供、100人の孫がいたそうだ。 |
「ここがメインストリート。」と言われた通りには 水位が上がっているせいか水の中を歩くしかない。やはり プラスチックのゴミはあちこち散らばっているしで よく病気にならないものだと不思議だ。 |
町の中心には 広場があり(とは言っても狭いが) ディスコなのが催されるそうだ。 |
お祭りで闘鶏が行われるようで 狭い鶏小屋に一羽ずつ隔離されていた。至る所にバー風の飲み物を売るところ、簡単な食事を供するところがある。ちょっと食指は伸ばせない。 |
両手がない男性がいる。どうしてかと聞くと 「爆薬を使っての漁で 誤って両手を無くした。」そういう漁は聞いてはいたが 今現在はされていないと思う。 |
どこでも 皆のんびりにこやかに ごろごろしている。 |
ここで一生過ごすことは 可能なのか、どうにも理解できない。 |
12月12日、カルタヘナで 出港手続きを代行するエージェンシーの不手際で 10時出発は叶わなかった。11時半、管理人のジョンの手助けで無事港を出る。ジョンの弟が東京に在しているそうで いずれ 日本から連絡する約束をした。 |
20マイル離れたロザリオ諸島の一番大きい島が目的地だ。かの有名なコロンビアの麻薬王エスコバル(Pablo Escobar)が別荘を持っていたところだ。3時過ぎ、島々からカルタヘナに帰るデイトリップのモーターボートが何隻も凄まじい爆音で走りすぎる。 |
4時半ごろ、無事 アンカーを下ろす。今回 初めて海で泳ぐ。水温は31℃。夕日の中でのビール、風は心地良く、世はこともなく。 |
翌日島に上がる。やはり ことは起こる。ゴムボートのエンジンがかからない。長く使用していなかったためのようだが、しかたなく、ルカスが手漕ぎで桟橋に到着した。 |
まずは 人がいそうなところを目指し、雑草の生い茂った小道を進む。大きな蝙蝠傘を抱えた若い女性が先を行く。小さい島なので反対側の海岸にすぐに辿り着いた。ホテルがあり、海水浴場では 観光客が寝そべったり、泳いだりしている。バーもあるが しょぼい作りで飲みたいものが、というか衛生的なものは見当たらない。一応 ココナッツジュースを頼む。その場で上部をカットし、ストローを挿すだけなので。青臭くて生ぬるい。 |
アメリカ、アイオワからの夫婦と軽く話す。年に一回 南アメリカを訪れるのが彼らの休暇だそうだ。 |
また島の散策へ。小さい小さい雑貨店がある。人が大勢集まっているのは教会のようだ。神父らしき人もいる。小屋造りで外での会合だ。 |
鬱蒼と木々の茂っているところは陰になって暑くもない。 |
またホテルが。ここがあのボートの来るところか。大勢が 小さな砂浜の前方 かなり狭く囲った海で泳いでいる、というか 水に浸かっている。大音響の音楽、片手に飲み物。いくつかホテルがあるようだが しっかり区切ってあり、行き来できない。どうもここでゆっくりしたいというところでもなく また歩き始める。ざっと島を一巡りした感覚だが 何もないところだ。 |
マングローブの茂った沼地は そそくさと急いで渡る。寄り集めの板を打ちつけた細い橋は不安定だが、また蚊に襲われることを思うとゾッとする。プライベートの敷地かどうか全く不明だが、何匹かの放し飼いの犬に吠えられる。男性がやってきて 我々の船のある場所を言うと、ここを通ってと、案内してくれる。「ここからまっすぐいけば良い。」もちろん真っ直ぐではないが一本道のようだ。知り合いに電話をしてくれ、彼が我々の到着を待っていてくれた。なんとも親切だ。 |
船着場の近く、若い男性が 「ここが僕の仕事場」と言って、「何が飲みたい?」と聞く。木陰にパイナップル、ココナッツを並べ、アルコール類が置いてある。2時間以上歩いて喉の乾いていた我々、ちょっと怖いながらも パイナップルジュースを頼む。その場で 上部をカットし、身をくりぬき 輪切りにしている。アイスボックスから氷を出してネッスルのクリームかなんかを混ぜてパイナップルの空洞へ戻し、輪切りのパイナップルを飾ってくれる。衛生概念は取り払い、喉の渇きを癒す。おいしい。が、10USドルとのこと。とんでもなく高い。ぼられたに違いない。良い若者と思っていたが ちょっと影を差す。 |
ポルト•ベレロで知り合ったカルロ、エレナ、マティ。カルロはローザンヌ出身のスイス人で、父親がチューリッヒ出身のため スイスドイツ語を話す。エレナは北イタリア人。4年前ローマから出発し セーリングをしている。マティは母親がエレナの友達という縁でセーリングにやってきた。 |
が、当然というか必然というか 船に付き物の故障(電気系統)のため ここに2ヶ月滞在していると。最初の1ヶ月は陸上での船生活だったそう。ちょっと想像を絶する。トイレも水も使えないのだ。トイレのあるホテルまで1km、小型の自転車2台は持っている。船を水上に移し また1ヶ月、この間にマティが乗船した。あの暑さと湿気と蚊の応酬、南国のホリデー気分には程遠い。 |
ホテルに付属している大型プールが 唯一の慰みだったようだ。が、陽気なマティはいつもにこやかにクリクリの栗毛をフワフワさせ、話しかけてくる。「ボクの英語 通じる?」と。イタリア北部と サルジニア島でコックをしていたという22歳、今回 初めてパスポートを持って外国へ来たそうだ。 |
必要な部品の到着を待ち (どれだけ待たねばならないかは 我々も経験済み)、やっと船をスタートさせることができ、我々に遅れること2日でカルタヘナにやってきた。
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旧市街で一緒に食事をした。スペイン語に不自由のない彼らが羨ましい。 |
カルロとエレナは スリランカでの休暇中に出会ったそうだ。24歳と19歳で一目で恋に落ち、41年間ずっと一緒だ。タイに10年間滞在していたという。職業を聞くタイミングがなく 何をしていたのかは不明だ。 |
カルロが友達と大西洋横断する期間、エレナは病床にある母親のためイタリアに留まっていた。することもなく、亡くなって25年は経つ父親の書斎を片付けていたエレナは 父親の自伝もどきの書き物を見つけた。「これは本にしなければ。」思い立った彼女は いろいろ調べ手筈を整え、一冊の本に仕上げたそうだ。家族、親族が喜んだのはもちろんのことだ。30歳の娘が一人いる。ケーキ職人とマネージメントの資格を持ちバルセロナで自立している。 |
マティから聞いた話で 母親は若い頃アメリカで 日本人と付き合っていたが キャリアのため 彼は日本へ帰ったと。エレナ曰く 「ああ、彼女はね。マティの父親は妻子があって、母一人子一人で育ったの。」因みにマティにアジア系要素は見られない。「若いマティが いつまで我々とセーリングするかは わからないけど、シェフがいてくれてとても助かる。」と、エレン。 |
彼らはこれから ジャマイカへ行くそうだ。またどこかで出会えるだろう。 |
ニュースレター78、12月8日
来た! やっと到着した。12月7日 午後6時、ポルト・ヴェレロ(Port•Verelo)からの宅配便で 修理されたリチウムバッテリーがここカルタヘナに届いたのだ。
修理に出したのが前期の4月(コロンビア内)。11月25日(金)にポルト•ヴェレロのホテルにバッテリーが届くとの知らせがあり、待機するが、待てど暮らせど音沙汰なし。
しかたなく30日(土)に船でカルタヘナに向かった。まだまだ修理や、整備することがたくさんあり、部品購入のためにもカルタヘナ『街』に滞在する必要があったのだ。
12月5日(木)にポルト•ヴェレロに到着したとホテルから連絡が来る。そこから ここカルタヘナまでは車で (たったの)1時間半だ。そのための手配にルカスは電話でと言うか 翻訳機能を駆使しながらWhatsApp で四苦八苦する。
7日(土) 午後3時頃 到着するとの返答、途中「少し遅れる。」と、結局 午後6時にそれは来た。
もちろん かなりの送料を『現金』で支払った。
物の流通に苦労した経験のない日本とスイスでは 考えられない行程だった。
ほぼ2週間 忍耐を要した。
ちゃんと無傷で届いたことに感謝すべきなのだろうが。
我々の過去のニュースレターは 「過去記録」でご覧になれます。
ニュースレター77、12月2日
コロンビアに着いて2週間近く経ってしまった。
22日、クレーンでの船の進水は完了したが、なんと船のエンジンがかからず ヨットハーバーまで辿り着けない。
試行錯誤の末、翌日 なんとか船を港の定位置に停泊することができた。
すぐにでも出航したいところだが、前回 修理に出していたバッテリーが無事使用可能となって ここのホテルに送られることになっている。
月曜日には到着するとのことで 待っていたが、来ない。託送会社の軌跡では 最後の地点までごく僅かなのだが。
毎日 明日には来ると、マニャーナ、マニャーナ、マニャーナ。
この何もない僻地のリゾート地、交通の弁も悪い。
毎日 散々 蚊に刺されている。2日目の夜、屋外しかないレストランで 夕飯をとった折、我々二人とも ものすごい数の蚊に 剥き出しの足と手を咬まれた。外食はやめ、最小限の材料で料理している。12月半ばまでここは雨季なのだ。湿地も近くにあるので 無限の蚊が潜んでいる。
レストランで昼間飲むフレッシュジュースが 慰みだ。
業を煮やして 30日、荷物到着を待たずにカルタヘナに向かい出航した。
懐かしのカルタヘナ、港では 管理人のジョンが待ち受けてくれていた。
夕飯は 早速 近くの寿司屋で。
が、ここもまだ安楽の地ではない。冷房のない我々の船、暑さと数は少ないものの やはり蚊の応酬に、就寝もままならない。翌日 ホームセンターで扇風機を購入、が問題は船は240Vで ここコロンビアの電気器具は110V対応なのだ。アダプターも購入したが、うまく作動しない。また次の日 延長コードを買いに行き、やっと船内で 扇風機が使用できるようになった。安眠までにどれだけ時間と手間がかかっただろうか。
働き者のルカスは 相も変わらず 船内の修理、片付けに専念している。
スーパーマーケットが近くにあるのがありがたい。冷房も効いているしWiFiもある。
午後から降り出した雨がまだ上がらない。蒸し暑さは言うまでもない。
ここを出港できるのはいつになるのか、今のところ 全く未定だ。
ニュースレター76、11月21日
11月20日、早朝 雨の中出発する。
空港で 荷物の重量オーバーで エンジンの器具の一部 2kgを手荷物にした。これが やはり セキュリティーチェックで引っ掛かり、チューリッヒ、ボゴタの空港で 時間を取った。
問題はボゴタ(コロンビア)からバランキラへの乗り換え時で、入国手続きの長蛇の列に イライラしながら待った。周りに 「乗り換えの時間がないので 割り込ませてもらえませんか。」と聞きつつ、前へ前へ、なんとか 間に合った。もちろん、冷たい視線を感じつつ。そして セキュリティーチェックで時間を取り、走りに走って ゲートに着き ゼーゼーと息をする。手荷物もかなり重たいので もう死に物狂いだった。
なんとかなるもんだ。
バランキラでは頼んでいたタクシーで、すでに夜の10時半くらいだったが スーパーマーケットに寄ってもらい、数日分の食料、水を調達した。船を置いているところには 買い物をする店がないのだ。
11時半 無事に ホテルに到着し、ビールで乾杯、まずは ひと段落だ。
そして今日、恐る恐る、船を点検に行く。タンクトップと半ズボンで。
船に掛けていた覆いが そのままの状態にあってホッとする。
船内は 除湿器が無事に作動しており、カビも生えていなかった。
港の管理人レーニンも 変わらず親しげに応対してくれる。
明日、クレーンで船を陸から海に移動できれば 完璧だ。が、まだ未定だ。
スイスから 孫の作った雪だるまの写真が届いた。
